トヨタ自動車の豊田章一郎名誉会長が死去した。トヨタ創業者である豊田喜一郎氏の長男に生まれ、トヨタ自動車販売(当時)社長、工販合併後のトヨタ自動車初代社長、会長、名誉会長と、長くトヨタグループをけん引してきた。自動車業界では日本自動車工業会(自工会)会長をはじめ、数々の公職を歴任。経済団体連合会の会長も務め、日本の自動車産業と産業界全体の発展に貢献した功績は計り知れない。日本の自動車産業の支柱であり続けた章一郎氏を失った喪失感は大きい。
14日午後4時48分、97歳で死去した。通夜・葬儀は近親者で内々に行う。長男でトヨタ自動車社長の豊田章男氏が喪主を務める。後日、お別れの会を開く。
河合満エグゼクティブフェロー(おやじ)は15日、「30代の班長時代、部長宛ての手紙を書いたら、豊田章一郎社長から返事が返ってきた。現場をちゃんと見てコメントしてもらえることに感謝した」と思い出を振り返った。また、「現場を回っている時は豊かな発想で指摘される。そのときは『そんなことはできない』と思うが、ヒントを出して考えさせてもらえる。章男社長はもっと現場に近いが、ヒントを出すのは章一郎さん譲りかもしれない」と語った。
章一郎氏は、父の喜一郎氏が57歳で急逝した1952年、27歳でトヨタ自動車工業(当時)に入社した。82年には、トヨタ自販とトヨタ自工が合併して発足したトヨタ自動車の初代社長となり、会長、名誉会長などを歴任。米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁事業を端緒とするトヨタの海外展開を主導するなど、同社の経営基盤を確立した。経団連や自工会、日本自動車会議所、ITS(高度道路交通システム)ジャパンなど、財界や自動車業界関係団体のトップも数多く務め、念願だった「日本自動車会館」(東京都港区)の開設に尽力した。会館入り口の銘板の文字は、章一郎氏によるもの。愛知県で開催された「愛・地球博(2005年日本国際博覧会)」では、博覧会協会の会長を務めた。2007年秋に桐花大綬章。
トヨタ自動車工業へ入社後、父の従兄弟に当たる故豊田英二氏(最高顧問)の薫陶を受け、元町工場(愛知県豊田市)の立ち上げや品質管理の強化などに携わった。技術者としては、当時として世界最小の乗用車用ディーゼルエンジンを開発したり、欧米の動向を踏まえ、小型乗用車のFF(前輪駆動)化などを決断したりした。
工販合併後のトヨタ自動車では初代社長、会長、名誉会長を務めた。技術者だが、人や地域とのつながりを大事にし、トヨタ自動車販売の社長時代には、全国の販売店を訪ねて回った。この姿勢は海外進出先や仕入れ先に対しても終始、一貫していた。
章一郎氏が社長から会長を務めた時代は、トヨタが、「三河の企業」から名実ともに日本を代表する企業に変わっていくころに重なる。自動車業界から初めての経団連会長になったこともあり、章一郎氏自身も意識してそのようにふるまっていた。
「もう、たくさん儲けるだけのストロングカンパニーではいけない。企業として、その企業に勤める人間として尊敬されるグッドカンパニーにならなくては」と、ことあるごとに語っていた。また「シェアを奪い取るのではなく。パイを育てていって成長した分をみんなで分ける。『共生』という考え方ですよ」とも何度も強調していた。
※日刊自動車新聞2023年(令和5年)2月16日号より